最後の昼食会に、友好的な飛び入り。(18) [旅行]
トルコ共和国における「日本年」記念「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」の全日程を終え、
アンカラのホテルで最後の昼食会を開き、「被爆者」、「高校生平和大使」、「諸宗教者」、
「地球市民集会委員」など、それぞれの活動の成果を話して、今後の平和運動の発展に
尽くそうと決意を述べ合っているとき、突然、隣の集団の責任者らしい人が話し合いの中に
飛び入りしてきた。
「あなた方は何のためトルコに来たのか」との質問であった。
早速、前川智子さんが通訳にたち、会話が始まった。
「話し合いに入っていいか?」と言うので、我々一行の目的と成果を話すと、彼はすっかり感動し、
「自分は医薬品関係のドクターである。日本人は素晴らしい。120年前にトルコ軍人を助けて頂いた。
原爆の悲惨さは知っている。自分のゼミの20人を引き連れて、原爆展には必ず行く。
次にトルコへ来るときは、連絡してほしい。今後は親しい友人だ」
と、この中年のドクターは、雄弁であった。詳しいアドレスを聞いて再会を約束した。
この様に、トルコの人々は車中や店先等でも、実に人なつっこいし、日本との強い親近感を感じた。





中丸三千繪さん。「原爆展協賛」アンカラ公演。(17) [旅行]
アンカラでの原爆展に協賛して、世界的なブリマドンナ・中丸三千繪さんのコンサートが
16日(土)20時から、アンカラ市コンサートホールで開催された。
トルコの代表的なフルオーケストラの伴奏により、中休みを挟み10数曲を歌いあげた。
アンコールにも応え、凡そ2時間のコンサートを終えた中丸さんの楽屋に長崎勢が押しかけたが、
いつもの明るい笑顔で優しく迎えてくれた。
彼女が得意な、カタロニア地方民謡で平和の象徴「鳥の歌」がなかったので、私が
「最後に鳥の歌を聴きたかった」と言うと、「準備していたのに、拍手とオーケストラ指揮者との
タイミングが合わなくて、私も残念でした」と・・・・・・。
本当に残念だった。





「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」アンカラ会場開会式。(16) [旅行]
「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」のうち、前半期の「首都・アンカラ展」が17日(日)から
11月7日(日)の間一般公開されるため、前日の16日(土)14時から、会場となる
アンカラ市の「ジェルモダン美術館」で開会式か行われた。
トルコ共和国近隣諸国や友好国の大使や武官などのほか、日本国大使館から招待された
賓客およそ200人が出席された。
冒頭、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の森田館長が主催者挨拶のあと、在トルコ共和国
田中特命全権大使が開催の意義を強調して挨拶、「非核特使」の長崎県被爆者手帳友の会・
井原東洋一会長(長崎市議会議員)が、「原爆展」開催に尽力されたトルコ共和国と在トルコ日本国
大使館田中特命全権大使以下全職員に感謝し、被爆者として出席した任務を前置きしたうえで、
長崎市長から託された「メッセージ」を代読した。
また、同じく「非核特使の井黒キヨミさん」が被爆証言を行い、高校生平和大使たち4人が個々に
「平和へのアピール」を行った。
会場には、20点の被爆資料と50枚の被爆関係写真が掲示されており、出席者はそれぞれ驚きの
表情を隠さず、被曝者たちへの質問が相次いだ。
この催しは、平和希求のトルコ人の心に響き、大きな成果が期待された。
田中信明大使からは「イスタンブールでの原爆展にも、是非とも被爆者に出席していただけるよう強く
要望し、外務省も協力したい」との要請を受けた。
トルコ共和国人口の15パーセント、1、000万人を超える最大都市イスタンブールでは、11月25日
(木)から12月7日(火)の日程で同原爆展が開催される予定であり、反響の大きさからすると、
アンカラを上回る成果が期待され、被爆証言者の再派遣を何としても実現して、長崎からの平和発信に
役立てたい。(10月16日)





カッパドキア。自然の奇岩群。造形美の内面をくり抜いた人間の手。(15) [旅行]
10、000平方キロメートルもの広大な地域に広がる奇岩群。
何万年もの、自然の風雨・風雪に磨き抜かれ、一つとして同じものがない造形、
奇形の岩山の一つ一つに、頂部付近に、或いは中腹部に小さな窓が開けられ、
登るための足掛けが刻まれている。岩の中はおそらく目的を持った空間であろう。
巨大な岩には壁面に出入り口らしいものもある。
人間の手が加えられて奇想天外な住居や、教会、作業場、保管所、隠れ家として
営みの場所があった。ある岩山の中腹に1ヶ所の小さな出入り口があり、現在では
鉄製の長い梯子段を上って中に入ると、完全に人の手でくりぬかれた大空間があり、
キリスト教会であったことがよくわかる。
鮮やかな色彩の絵画と人々の敬虔さが残されている。
ギョレメ地区など一部の場所を観ただけでも、暮らしの必然と祈りと恐怖からの逃避などが、
ない混ぜられた昔の世界が今、目の前に観られる。
また、別の場所では1960年代に発見されたという地下8層の住居は、外敵から一族を守り
抜く隠遁の場所として、一つの集落が形成され、攻撃など不測の事態に備え、侵入を防ぐ
手だてを施した構造の中に、礼拝室、台所、加工場、保管庫、などを備え、水対策、酸素の
取り入れ、排煙対策など、あらゆる手だてが整えられ、自給自足、自治組織の機能を有し
ながら、この地下住居1ヶ所だけでも、1、000人規模で生活していたらしいという。
食料の生産や調達や排泄は、近隣の広々とした土地を利用したのであろうか。
いまだに手をつけられていないこのような古代歴史の封印箇所が、幾つあるのかさえ
わからない。
世界の摩訶不思議、不可思議の場所に迷い込んだ時、現代感覚での想像の域を超えた。





カマンの地で長崎県大村市出身の考古学者に出会う。(14) [旅行]
1月15日。この旅で唯一の観光。アンカラから300キロメートル離れているカッパドキアへ
向かう途中で、日本庭園を中心にした、「平和公園」に立ち寄った。
ところがこの地は、人類の歴史、古代文明を解き明かす考古学研究の拠点的場所であった。
昨年日本の皇族の援助と各種団体の資金提供によってようやく建設された「アナトリア
考古学研究所」で、大村幸弘博士に出会った。
26年間、この地で遺跡を発掘し続けて、いにしえの戦いの歴史と文明を解き明かす作業と
研究に没頭しておられる博士が、大村市出身だと聞いて特に親しみを感じた。
博士の説明は専門的で、理解は容易ではなかったが、想像を遙かに超えるものであり、
人類がいかに戦いの連続であったかが証明される遺跡であって、そのお仕事の重さを
思い知らされた。
帰国したら、早速、お土産に差し上げたカステラのお礼メールが来た。
久し振りにふるさとの味を賞味しました。庭園の紅葉が大変美しく、いま盛りです。
と懐かしさの万感の思いが丁寧に綴られていた。





大使公邸での夕食会。日本の書道団体と同席。(13) [旅行]
アンカラの日本国大使公邸にお招きを受けての夕食会は、田中大使の暖かなこころ配りにより、
「日本年記念書道展」を開かれた代表団の皆さんとの交歓会となった。
京都料理を得意とする調理師の手で、久し振りの日本食に、お酒も程よくまわり、書家の皆さんと、
トルコの地で一体化した。大使が時計を気にするのにも構わない「大宴会」となった。 (10月14日)





ブユックコレジ校(アンカラ市内)高等部訪問。積極的交流継続の合意。(12) [旅行]
13日の午前中にイスタンブール市内の小中高校(ウルマック校)の高等部を訪問し、
大きな成果を確信したが、14日には、アンカラ市内の幼小中高校(ブュックコレジ校)
の高等部を訪問した。玄関前に高校生の代表が小旗を振りながら歓迎してくれた。
丁度お昼時だったので、学校給食を学生たちと一緒に美味しくいただいた。
ここでの平和交流は、トルコ側も校長先生以下教師、高校生が共に入念な準備と
事前学習を行っており、すべて英語でのやりとりが可能であった。
日本側の平和大使4人は、分担して、自らの日常活動を紹介すると共に、被爆の
惨状を示す写真数枚を掲げて説明し、世界平和のために高校生同士の継続的な
連帯と交流を訴えた。トルコ側も日本側と同じく、代表4名が分担して意見をのぺた。
被爆者からは、中村キクヨ副会長が証言し、「被爆当時私は21歳、爆心地から5.8キロメートル
も離れた場所で洗濯物を干している最中に、突然の爆風に吹き飛ばされました。
幸い外傷はなく、安心していましたが、やがて、海を渡って運ばれてきた、負傷者の救護や
死体処理に携わりました。
その後被爆者として、運動に加わっていた私にとって、悲しいことが起こりました。
被爆2世の次男が、7年前55歳の若さで白血病で亡くなりました。その死因について、
医師から『お母さん、彼が幼児の頃貴女が与えた母乳が原因だと思われます』と知らされた
時の驚きと、原爆の遺伝性の恐怖に打ちのめされ、言いしれない怒りが生まれました。
被爆者運動に長い間携わってきた私にとっては大変なショックでした。
いま、86歳の高齢になりましたが、長崎を最後の被爆地にするため、生涯をかけて
頑張り抜きます」と涙ながらの訴えに、会場は静まり返った。
被爆者手帳友の会は、長崎の被爆者が作成した寄せ書き2枚と千羽鶴2房を高校生
たちに手渡したが、両国の高校生たちの隔たりのない交歓振りには、未来への明るさ
が感じられた。(10月14日)





美しい町。からつ。 [旅行]
唐津の町並みは、美しく整備されていて歩いても楽しい。
道路、街路樹、河川、橋のデザインなどにも工夫が凝らされており、
道路に面した家並みも良く手入れされているように思う。長崎では
見慣れた風景の「ゴミステーション」が全く見当たらない。
建物の周辺や内部にも唐津焼きの技法を駆使した彫刻や絵画などが
置かれていて、洗練されているように思う。
市の美化方針でもあるのか、市民の自主性なのか、財政事情が裕福なのか、
一度調べて参考にしたい。川の中の大きなサギも悠然としていた。





キューバ革命50周年記念の旅(4)。 トロント空港近くのヒルトン・トロントエアポートホテルで一息。 [旅行]
頭の中をキューバモードに切り替える前夜は、トロント空港近くの
ヒルトン・トロントエアポートホテルに一泊。
乗り継ぎなどに利用するホテルは、何処も同じだが単調で可もなく
不可もなく、世界のヒルトンでさえも、事務的で旅の感動は感じられ
なかった。
ただ、玄関横に忘れられているかのような、二輪の黄水仙が揺れて
おり、室内ロビーの永遠の灯火?の揺らめきだけが、だだっ広ろい
ホテルの安心ポイントと言えようか。
電話を国際モードにしているので、長崎の夜の町から早朝に何回も
起こされて苦笑した。
午前7時ホテル発、生憎の雨ながら、混雑な中でも、すでに訪問団一同
の頭は、キューバモードに切り替えられ、午前10時発ハバナへの
AC970便を待っている。





キューバ革命50周年記念の旅(3)。 トロント空港。 [旅行]
成田を27日の17時10分に出発して、11時間40分もかけて飛んで
来たのに、トロントに着いてみれば、同じ27日の16時50分だった。
出発時間よりも1時間早く到着とは、正に時差のミステリー?である。
1日儲かった気分だが、帰りは逆になる。
3年前のトロントは、アメリカからバスでの出入りだったので、トロント空港
は初めてだった。
とても広大で近代的な空港で、奇抜なモニュメントや装飾が天井や床や
壁面に施されており、単調なアンバランスさに却って不思議な面白さがあった。




