パラオのケルビン君から電話。「11月に行く」と約束。 [パラオ]
ケルビン君は、パラオ共和国の親しい友人である。また、亡妻和子の「墓守り」でもある。
パラオを初めて訪れたのは、1996年2月であった。和子とたった2人で、独立間もない
パラオを訪問した時、全く知人は無かった。
当時の長崎地区労中嶋照次書記長から話を聞き、「キッタレン」(心一つに)の指導メンバー
の一人で国会議長のピーター・スギヤマの名前だけを覚えて、旅立った。
空港からホテルまで荷物を運ぶ青年の「ジョウ君」に案内を頼んで、ピーター・スギヤマ氏と
会った。国会議長と言っても、パンツにランニングシャツだった。
気さくな人で日系二世の彼は、その夜「キッタレン」の仲間を自宅に集め、私達2人の
歓迎パーティを開いてくれた。その席で使い走りをしていた青年が、ケルビン君だった。
語らいの中で、「活動用に車が必要」との希望を聞き、帰国後に、中古車のスカイライン
1800ccライトバンを完璧に整備して別送し、その年の7月に再訪した。
以来、大袈裟に言えば「国賓扱い」となった。
青い空と広く碧い海に和子は魅了され、2人は毎年訪れた。案内人は常にケルビン君である。
2004年2月に亡くなった和子の思いを汲んで、その年の8月、家族全員でパラオの
ゲレメアウス島に一部を散骨した。
毎年の旅は続けており、美しい砂浜にケルビン君が摘んできた花々を広げ、その中に
写真を置いて供養したあと、敷き詰めた花々を海に流すのが常である。
ケルビン君からの電話は今年になって4回目。
「兄さん!まだ来ないの?」、「うん。必ず11月には行くよ」と約束した。


パラオの海、山、空。 [パラオ]





パラオの海は、コバルトブルーから青、碧、紺、藍色など海底の状況によって様々な変化をみせる。
珊瑚礁は、まさしく色彩の鮮やかさを競うかのように百花繚乱のお花畑である。
直径5メートルをこえるテーブル珊瑚はザラにある。呼吸の度に青紫の輝きを見せるシャコ貝は、
貝類最大のものであるが1メートルを超える巨大な二枚貝がゴロゴロしているのには驚く。
2月の海はとりわけ透明度が高く、ダイバーも多い。世界の三大ダイビングスポットと称されている、
ブルーコーナー、ブルーホール、ビッグドロップなど魅力のポイントは数え切れないが、ゲメレス島
のビッグドロップは、島周辺の深さ数メートルの珊瑚礁台地からいきなり660メートルの深海まで
珊瑚の壁となっている。1メートル以上の亀やマンタ、サメ、ナポレオンフィッシュなど物おじすること
なく、人々と戯れるように悠然と泳いでいて、まるで人間の方が観察されているようだ。山々の緑は
深く、空の青さは、澄み切っていて、真っ白い雲は光を放っている。因みにパラオの国旗は、日の丸
に良く似ていて、青い空と海に照る月がデザインされている。
パラオの島々 [パラオ]





パラオ共和国は400近くの島々で成り立っている国であり、東西南北のもっとも遠い島を
結ぶ線から200海里以内を国としている。
典型的な島は海に浮かんだマッシュルームの姿が多いが、クジラ島、カメ島、ウサギ島、
ネズミ島、ココナッツ島、橋を浮かばせたようなネイチャーアイランドや、おじさん島なども
ある。おじさん島は、ビール腹のおじさんが寝そべった姿そのままでとてもユーモラス、
プロレスラーの猪木の練習場がある猪木島や財閥岸川 至さんの島のカープアイランドも
ある。カープアイランドの名前の由来は面白い。父親が伊万里出身の二世ながらジャイアンツ
ファンの至さんと広島出身でカープファンの夫人との賭で、「優勝したチームの名前にしよう」と
決めていたところ、その年はカープが優勝したため、諦めきれない至さんが、「ジャンケンで
最終決定しよう」と提案し、3回の練習の後本番一発勝負でご夫人が勝ったため決定した
との事。この話をする時のご夫人の勝ち誇った顔と至さんのいまいましげな顔との対比が
面白かった。
数え切れないほどの島々でも有人島は8島だと聞いた。
ホテル・ニッコウ・グアムに一休み。 [パラオ]
パラオ共和国に今なお眠る戦没者の慰霊や日本国大使館で「パラオの最新事情」など
も聞いたが、短時日の過密スケジュールでの駆け足だったので、パラオを深夜に出発し、
まだ明けやらぬ早朝にグアムに到着(飛行時間2時間・時差1時間進む)したが、一休み
することにした。朝早いのでホテルに着くとすぐフロントから鍵を貰ってベッドに急行する
ような始末である。
パラオから福岡への次の便に乗り継がず1泊(?)しても、また翌日午前4時にホテル
出発なので、 ホテルにしては、実質的に寝具類のお世話から消耗品など2泊分を準備
した上、1泊料金では合わない計算であろう。
ともあれパラオからの帰途には、いつもグアムで一息いれる事にしている。
ニッコウ・グアムの「サンセット・バーベキュー」は、ポリネシアンダンスのショーもついて
いて人気が高い。
渚では、いままさに水平線に沈まんとする太陽を見つめる若い二人、新婚さんだろうか?
ホテル・ニッコウのすぐ右手高台に「恋人岬」もあり、遠い昔を思い出しちょっとロマン
チックな気分に浸る。
ボリュームたっぷりのバーベキューは、飲み放題付。
手に負えない量に箸を休めていると、賑やかにショーが始まった。
ペリリュウ島のピークに追い詰め、そして「玉砕」 (8) [パラオ]
ペリリュウ全島が石灰岩質だろうか? 水戸山の「千人洞窟」はじめ、自然の洞穴を
そのまま将兵の指揮所や軍人の居住空間や、塹壕や弾薬庫に使用しているのが
随所に見られる。 思いもよらない無人島に「見張り所」があったり、洞窟から海上
すれすれに砲身が向けられているなど、太平洋戦争時の守備隊の状況がうかがえる。
中川州男守備隊長終焉の地周辺の洞窟は、夥しい数であり、大山と称されるピーク
は、その頂上である。
最後の56名が追い詰められたのがこの地であろうか、今では115段の階段が付け
られこの聖地に上がれる。
360度が見渡せるピークには、アメリカ海軍による記念碑が建てられており、飛行場
跡やオレンジビーチも眼下である。
島が珊瑚礁に囲まれていることが、周囲の白波でよくわかる。
今、このピークに立って、青く澄み渡った空、緑豊かな島、コバルトブルーに輝く海を
みると「なんと平和な島だろうか」と実感し、愚かな戦争をしばし忘れさせられる。
また、アンガウル島を見渡せるペリリュウ島最南端には、ペリリュウ平和記念公園が
設けられ、重厚なモニュメントがある。
ペリリュウ島守備隊長・中川州男大佐終焉の地。(7) [パラオ]
「ペリリュウ神社」には、日本軍人がペリリュウの戦闘で如何に激しく戦い、耐え、
そして玉砕に至ったかを称え、後世に記憶されなければならない趣旨のメッセージ
を発したアメリカの司令官ニミッツ将軍の碑文がある。
敵将として、「それでもアメリカは勝ったぞ!」と言わんばりの勝ち誇りが透けて見える。
戦争に「聖戦」はあるのか?国家の威信を賭ける戦いで、常に庶民の命は消耗品と
される。「一将功なり万骨枯る」である。スポーツのノーサイドではない。敵対した相手を
称える意味が何処にあるのだろうか。
敵対していた青年たちが戦争が終わった時「もう二度と戦争はしない」とエルベ川の橋の
上で誓い合った事とは全く違うことを肝に銘ずべきである。不戦平和を語り得ない職業
軍人の言葉は私には響かない。
中川州男大佐終焉の地に、民間人によって「鎮魂」の碑が建立されたのは1971年
(昭和46年)と記されている。「玉砕」して27年が経った後の事になる。
戦争を起こすのは国家であり、犠牲者は常に弱い国民である。国家は絶対に反省しないし
責任はとらない。
南洋庁が所在したパラオのコロールから南へ50キロ、南北9キロメートル東西3キロメートル、
わずかに13平方キロメートルのこのペリリュウ島はじめパラオ全島に所在する慰霊碑の数々
は、総て遺族か民間人の浄財によって建立されており、ペリリュウでは水戸山千人洞窟
はじめ500箇所の洞窟に、そして更に南西11キロメートルの激戦地アンガウル島に、まだ
万骨が放置されているのに日本国家はこれを無視している。
ニューギニアなど南海の無数の孤島に放置された亡骸の霊を慰められるのは、不戦平和の
誓いと行動しかない。
ペリリュウ島の武器残骸。 (6) [パラオ]
ジャングルの中に撃墜された「ゼロ式戦闘機」か破壊されたまま晒されている。
米軍の重戦車も朽ち果てているが、日本の戦車とは使われている鋼材も大きさも
格段に相違がある。
洞穴を利用した陣地に日本軍の大砲が海をねらって据え付けられているが、果たして
実戦に役だったのだろうか。
背後にはトンネルの連絡路で繋がれた陣地が、土を詰めた無数のドラム缶で防御され
ている。
何れを見ても戦争という名の壮大なムダを思わずにはいられない。
それが60年以上経った今もアメリカによって世界中に繰り広げられている。
覇権の末路を思う。